神社の古絵馬           H23・10・30

1.概要

  絵馬は、祈願や報賽(祈願成就のお礼)のために馬の絵を描いて神社やお寺に奉納する額のことをいいます。馬や馬の像を奉納する代わりに馬の絵を描いた額を奉納するように変わってきました。絵は馬に限らず、人物、景色、物語などさまざまです。古い寺社に行くと、絵馬堂があり、古い絵馬が掛かっているのを見かけることがあります。

 近年は絵馬を奉納する習慣は昔ほど盛んでないように思われます。当神社では昭和57年に奉納された太鼓神輿図(日本画家 中畑有宏筆)の絵馬(というより単なる絵画というべきかも知れません。)があります(写真1)。これはタテ・ヨコ107×162センチの大きなものですが、近年奉納された絵馬の額はこの1点だけです。今は、社頭で授与したり、ご祈祷の撤下品(お下がり)に含めてお渡ししたりするミニ絵馬(写真2)がもっぱらです。これに祈願を書いて境内の絵馬掛(写真3)にかけてもらいます。絵馬掛はどこの神社へ行ってもよく見かけます。

 ところで、当神社には江戸時代中期から明治・大正時代までに奉納された大小さまざまの古い絵馬20数点が残されています。これらは、旧拝殿(元禄16年から昭和43年)の内壁面に飾られていたものです。その一部が写っている写真があります(写真4)。この写真には三十六歌仙図の絵馬の一部のほか、剥落の著しい絵馬が見えます。これらの絵馬を当神社では「古絵馬」と呼ぶことにしていますが、そのほとんどが剥落し、絵柄が分らないか、一部が分る程度のものです。

 これらは旧拝殿の解体時(昭和43年)に外され、比較的保存状態の良いもの5点が選ばれ現在の拝殿(昭和44年落成)に掛けられました。これらの絵馬は現在もそのまま残っていますが、他は神輿倉庫の隅に雑然と積まれ埃にまみれていました。その積まれたものが旧拝殿に掛っていた絵馬であることは先代宮司から聞いていましたが、あまりにも汚れ、一見廃材のような感じでしたので、触る気にもならないようなものでした。

       
           写真3                         写真4

 
         写真1


          写真2

2.博物館による資料化

 ところが、平成5年の太鼓神輿の修復調査に際し、吹田市立博物館の学芸員の方が太鼓神輿を調査した際、その傍らに積まれていた前記の古絵馬に気付かれ、そのすべてを運び出して1点ずつ写真に収められました。このとき、私は初めて古絵馬の状況を知ることができました。一部破損、虫食い、絵柄の剥落等、保存状況は甚だよくありませんでした。博物館では現拝殿に収められた5点を併せ全部を資料化され、当神社にその調査カードと写真をいただきました。その内容をまとめて末尾の別紙1に示します。最も古いものが寶永元?年(1704年)の「奉納俳諧五十句額」です(写真9)。最も新しいものが大正3年(1914年)です。大きさは大小さまざま、絵柄もさまざまです。文字は奉納時の年号、奉納の趣旨などが読めるものがいくつかあります。その中で白眉は「張翼徳図」です(写真10〜12)。これは項を改めて紹介することにします。
 なお、このページ末尾の別紙1のとおり、古絵馬の数は200年の間に26点奉納されていたことが分ります。

 すでに拝殿に掛けてあるものはともかく、他の埃にまみれたものをどうするか問題した。旧拝殿解体時に氏子総代さん方もが恐らく考えたあげく、とりあえず倉庫に入れておこうということになったのではないかと思われます。修理する価値も見当たらないことから、平成7年当時の氏子総代会においても同様の結論でした。

  私としては、従来と同様のまま倉庫に戻すのも惜しい気がしましたので、博物館の学芸員の方に保管方法を教えてもらい、各絵馬ごと保護シートで包み、段ボールケースに収納することにしました。保護シートは博物館のものをいただきましたが、絵馬の大きさは大小さまざまですから、適当な段ボールケースがありません。そこで、段ボールシートのブランクを段ボール会社で分けてもらい、絵馬ごとサイズを合わせてケースを作る作業を自分で行いました(平成7年)。絵馬を保護シートで包み、段ボールケースに収めてロープで縛りました。写真5にその一例を示します。各ケースに記した保管bニ別紙1の保管bニが一致します。保管bェ付いていないものは現拝殿に掲げられている前記5点の絵馬です。保管bフついた22点の古絵馬は、倉庫の隅に収納しました。恐らく二度と開らかれることはなかろうと思いますが。
  写真5

3.現在の拝殿に掲げられた古絵馬

(1)西側壁面
 ・役行者滝修行図(写真6)
 ・黒馬牽図(写真7)
 ・馬上武者図(写真8)

  
       写真6                        写真7                      写真8

(2)東側壁面
 ・奉納俳諧五十句額(写真9)
 ・馬上張翼徳図(写真10、11)、同裏面の墨書(写真12)

   
       写真9                 写真10             写真11             写真12

4.馬上張翼徳図

 写真10、11、12に示した絵馬は、馬上張翼徳図です。現在は東側壁面に沿って左右一対の脚台を置き、その上に立てています。従前の姿については、残念ながら前宮司から伺っていませんが、絵馬の額縁上縁部に左右一対の吊金具が打ち込まれていること、前記脚台が比較的新しいことから見て、従前は壁面上部から吊下げ下縁部を壁面で支えることで角度を持たせて掛けられていたと推測されます。この絵馬について特筆すべきことは、奉納の詳細な趣旨が裏面に墨書されていること、奉納者が旧榎坂村と旧蔵人村であることなどから、歴史的な意義があることです。さらに面白いことに、兄弟絵馬と言ってもよいほど似たものが、隣町の豊津町(旧蔵人村)の氏神さまである稲荷神社さんに現存するのです。
 この絵馬および稲荷神社さんの絵馬については、当神社の「奉賛会だより二号」(平成2341日発行)の「神社歴史遺物紹介(二)」において紹介しているところであり一部重複しますが、加筆して再掲します。

 張翼徳、字(あざな)は張飛といえば、中国の「三国志演義」に登場する豪放磊落、一騎当千の武将として知られています。その張飛が、騎馬に跨り、「髪は冠をとばし、髯(ゼン、ひげ)は逆しまに分かれて、丹(タン)のごとき口を歯の奥まで見せ」(吉川英治「三国志」)今まさに敵に挑まんとする迫力ある姿を描いた絵馬が当神社に残されています。江戸中期の宝暦14年(1764年)に奉納されたものです。縦181センチ、横127センチの大きなものです。裏面に奉納の趣旨が墨書されています。経年変化で薄くなり判読し難い部分もありますが、吹田市立博物館のご援助をいただきながら、右欄のように、分りやすく読み下してみました。(原文は末尾の別紙2をご参照ください。)
                絵馬裏面の墨書  注  記
 
 当郷両邑は、江戸谷中にご在住の森公の所領である。時に宝暦十三年六月、垂水邑の某、榎坂蔵人の某らが当地の百姓(住民)に代わって、領主の裁断を仰ぐべく江戸に赴いた。事のいきさつは複雑であるので省略するが、森公は百姓代表の嘆訴を聴かれ、一挙速やかにこれを糾明し、間違いを正し、あたかも快晴を望むかのような明快な裁断を下された。領民として歓びに堪えない。これは当神社の擁護に依るものに他ならない。お礼として張翼徳像を描かせ、当社に奉納し広前に掛け奉るものである。義を信じる志を永く忘れてはならない。幣帛を奉り、森公の武運長久と、百姓の業の千歳なることを祈る。
  時に宝暦十四年三月甲申春三月吉日 
                 谷中森公領下榎坂邨蔵人邨農中
                             敬白
  「宝暦13年」:1763年 10代将軍徳川家治の時代
 「当郷」:この里。具体的には摂津国豊嶋郡榎坂郷を指します。
 「両邑」:二つの村。即ち、末行の榎坂邨(むら)と蔵人邨(むら)を指します。

 「森公」:旗本森重政公の子孫である旗本森家(次郎家と呼ばれた家と思われる。)。当時の主が誰であったか今のところ特定できていません。両村が森家の所領であったことがわかります。
 「垂水邑の某、榎坂蔵人邑の某」:江戸に行った者。垂水邑の人物が混じっている理由は不明。立会人か。この絵馬の奉納者は、榎坂邑と蔵人邑の住民の共同体(榎坂邨蔵人邨農中)であることから、垂水邑は対立する当事者の一方であったとも推測されます。
 「張翼徳」:絵馬の図柄として、なぜ張翼徳(張飛)を選んだか。三国志演義に登場するたくさんの武将のなかで、有名ではあるが主人公ではなく、名脇役といった人物。しかも必ずもう一人の有名な武将「関羽」とともに動と静で対立する人物として登場します。劉備玄徳を盟主として三人で義兄弟の契りを結び、艱難辛苦ののち三国の一つである「蜀」を興し、劉備玄徳が初代皇帝につきました。軍師として諸葛孔明を招へいしたことでよく知られています。

「義を信じる志を永く忘れてはならない。」原文「不可忘永義信微意也

5.兄弟絵馬の現存 

 ところで、隣町の吹田市豊津町(旧蔵人村)の氏神さま稲荷神社の宮司様(丹生廣明氏)から、同社にもよく似た絵馬があとのお話を伺い、奉賛会広報委員のお二人とともに訪ねました。横置型ですが、大きさ、造作、材料等が共通し、裏面に墨書された奉納の趣旨も同じ文章です。奉納の時期もぴったり一致。奉納者も旧蔵人村と旧榎坂村の連名。描かれた人物は、悠然と脇息に寄りかかった武将、美髯(びぜん)公とも呼ばれた関羽(墨書では「寿亭侯関羽」)です(写真13)。兄弟絵馬といっても過言ではありません。
 察するに、両村が共同して事案の解決に当たり、しかも上首尾に帰したので、報賽としてそれぞれの氏神さまに同様の絵馬を奉納したものと考えられます。
 
          写真13

【疑問】
 当神社の絵馬の図柄がなぜ張飛で、稲荷神社さんの方がなぜ関羽であるのか。
不可忘永義信微意也」とは、何を意味しているのか。長いこと疑問に思っていました。
 そこで、とりあえず次のような「絵馬物語」の世界に入ることで、当面納得することにしています。

6.絵馬物語(フィクションです。)
 絵馬を奉納するにしても、その絵柄を何にするか、当時の人たち(村方三役等)も頭を悩ませたに違いありません。
神社に残されている当時の会合の記録を覗いてみましょう。

 1回会合(宝暦138月某日、庄屋宅)

百姓代「絵馬奉納するちゅうても、どんな絵(えー)描(か)いてもろうたらよろしおますのやろか。」
年寄「絵馬ゆうたら、そりゃ馬の絵でっしゃろ。」
庄屋「馬はありふれてるさかい、おもろないな。永いこと残るのやから、何んかええ絵(えー)ないかな。蔵人の稲荷さんと合わさなならんので、両方につながりのある絵がほしいなあ。」

 2回会合(宝暦139月某日、庄屋宅)

庄屋「蔵人の庄屋さんとも相談したんやけど、今度のことを振り返って首尾よう事が運んだんは、結局のところ、わしらは人として行うべきすじみち、一言でゆうたら「義」や、これを大事にして事を運んだんがええ結果を生んだ、ちゅうことになったわけや。そこでな、その「義」を絵にしてもらおちゅうことになりましたんや。ゆうてること分るやろか。」
百姓代「分りますかいな。「義」の絵やなんて。」
年寄「庄屋はん、勿体つけんと早よゆうてえな。」
庄屋「わしも、蔵人の庄屋はんも「三度のメシより三国志」ちゅうくらい三国志好きや。三国志で「義」に篤い一対の人物云うたら、関羽と張飛や。この二人をそれぞれの村で絵に描いてもらお、ちゅうことに決めましたんや。」
年寄「それおもろいでんな。そんで、どっちが関羽で、どっちが張飛ですねん。」
庄屋「どっちにするかクジで決めよ、ちゅうことになったんやけど、わしクジに弱いし、かなわんなと思とったら、案の定負けクジや。向こうに関羽とられてしもた。関羽好きゃのに。」
年寄「張飛でよろしいでんがな。思いっきり元気のええ張飛描(か)いてもらいまひょや。

3回会合(宝暦14年2月某日)神社拝殿

庄屋「出来てきましたでー。よろしおまっしゃろ。」
年寄「ええもんやな。ケヤキやで。光ってますがな。」
百姓代「色が見事や。それにしても怖い顔やな。張飛はんは。こども見たら怖がるで。」
庄屋「あんたに頼みがありますねん。この裏に字(じい)書いてほしいのや。あんた字上手(じょうず)やさかい。文章これや。蔵人の庄屋はんと相談して決めましたんや。」
年寄「うぇー?! えらいこっちゃー。寝られへんがな。」
庄屋「入ってまっしゃろ。例の「義」。不可忘永義信微意也。苦心したでー。」 

 4回会合(宝暦143月某日)神社社拝殿

年寄「桟が邪魔で、書き難いわ。」
庄屋「絵外すのはめんどうやから、我慢してーな。」
年寄「あー、末代までの恥書きそうや。……ごちゃごちゃ云うさかい一字飛ばしたがな。」
庄屋「望でっか。かましまへん。横へ小っそう書いてくれたらよろしい。」
百姓代「ええなー。出来たがな。どれくらい持ちまっしゃろ。」
庄屋「二三百年は軽いやろ。そのころ榎坂はどないなってんのやろ。「義」を忘れてるのと違(ちゃう)やろうか。この絵馬見て思い起こしよるかな。わしらの孫子(まごこ)は。」
年寄「謎かけみたいな絵馬でんな。」
                                                          以上



【別紙1】
古絵馬(年代判明のもの)
  ※保管bヘ段ボール包装を施し倉庫に保管したもの、「拝殿1」等は拝殿に掲額のもの。「保存状態」は写真から判断。
   調査カード及び写真は「古絵馬保管台帳」に収録。

保管 図柄名称 大きさ(タテ×ヨコ)cm 奉納時期 墨書等 保存状態 その他
1 拝殿1 奉納五十句額 72×235 寶永元?年(1704) 願主 寺内□□ 黒く変色 原田神社のものと類似
2 20 酒呑童子図 123.2×197.4 正徳4年(1714) 寺内村 剥落(大) 図柄不明
3 拝殿2 馬上武者図 101.0×62.8 宝暦11年 奉掛御廣前 木田郡次 剥落(小)
4 拝殿3 馬上張翼徳図 181.8×127 宝暦14年(1764) 奉納趣旨(別紙) 良好 稲荷神社の関羽図と類似、奉納趣旨同一
5 7 合戦絵図 46.2×95 明和2年(1766) 奉掛 御神前 剥落(中)、破損(中)
6 1 芝居図 71.1×95 安永2年(1774) 友吉 他四名 剥落(中)
7 6 芝居図 90×105.2 安永5年(1777) □納□前 剥落(中)
8 10 (不明瞭) 72.5×95 文化元?年(1803) 奉納御寶前 □□町 為吉他五名 剥落(中)
9 14 女座図 24×29 文政11年(1829)9月 奉献 由上紋四郎 剥落(小)
10 15、17の1、2、19の1、2 三十六歌仙図   五枚組 35×112.3 明治3年(1870)4月 奉納 榎坂村氏子中     紛色師 川島三蔵
画工 松光斎長栄、川嶌重兵衛
剥落(中)破損(中) 旧拝殿内の掲額状態の写真(写真1)。
11 11 西南戦争図 57×76.5 明治10年(1877)10月 奉納 金原源之丞 剥落(小)
12 21-(3) 桜井決別図 42×54.8 明治31年(1898)11月 奉納 願主佐々木リヱ 剥落(小)
13 21-(1) 高砂図 47.4×62.3 大正3年(1914)3月 奉納 十八歳女寺辻タミ 剥落(小)
古絵馬(年代不明のもの)
14 拝殿4 役行者滝修行図 77.5×35.8 明治3年中興紛色画 やや良好
15 拝殿5 黒馬牽図 90.7×227 明治3年中興彩色 やや良好
16 高御座図 78.8×57,7 不良 所在不明
17 宮中三殿図 80.9×60.3 不良 所在不明
18 12 帝鑑図 103×121.6 奉掛御寶前 諸願成就皆令満足 寺内村上下若者 剥落(大)
19 2 二頭馬疾駆図 94×120 奉掛御寶前 上野氏 剥落(中)
20 3 白名仇討図 84×105 天□丑歳晩穐 願主 文治郎他五名 剥落(中)
21 5 合戦図 77×95 □掛 □神前 諸願 剥落(大)
22 4 合戦図 72.5×95 奉懸 御寶前 大坂 柏屋 剥落(中)
23 9 合戦図 72.4×92 奉納 御□□ 三軒屋子供中 破損(一部)
24 8 廻船図 60.5×75.5 奉掛御寶前 阿波座屋堀□伊兵衛 破損(一部)
25 13 不明 37.8×27.3 破損(大)
26 16 拝み男図 22.1×29.2 寅年五十一男 剥落(中)破損(一部)


【別紙2】

馬上張翼徳図の奉納趣意(絵馬裏面墨原文) 

當卿両邑谷中森公之所領也

干時宝暦十三癸未夏六月 垂水邑某    

榎坂蔵人某等 代百姓赴東都之

旨趣多端略之 公聴嘆訴之

一挙速糺明之正奸直 如望快晴之

領下農人不湛歓 全有蒙当社擁護

於干茲奉幣令画漢張翼徳像 奉掛広前

不可忘永義信微意也

再幣謂祈公武運長久百姓業千歳

惟時宝暦十四甲申春三月吉日

 谷中森氏公領下 榎坂邨農中   敬白

         蔵人        

 



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